食物の為の5つの膳想曲
ホテル、レストラン訪問記
旅のアルバム
ルヴァロワの街には、中華料理屋と同様、パン屋も多かった。パン屋だったら、フランスの街なら沢山あってもおかしくはない。それでも、アパートから4方向に3区画以内に限っても、6軒ぐらいあったので、なかなかタフな競争であった。最初はいろいろなパン屋で買ってみて、なるほど、バゲットひとつ取っても店による味の違いは大きいな、と感心しながら特に決まった店を作らなかった。中の感触、湿り気、塩の具合、時間がたったときの味、それぞれが違う。そのうちに、自分の所から最も近い比較的豪華な構えの店を一番利用するようになった。メトロの駅にも近く、帰りに寄ってくるにも便利だったこともある。バゲットが標準的に美味であり、クロワッサンもさくさくとして悪くなかった。そうして、ルヴァロワの街で3年以上過ごした。
ある時、これまであまり買わなかった同じ通りを下ったところにある角のパン屋でクロワッサンとショソン・オ・ポムを買ってみた。いや、正確にはその馴れ初めがどのようなものだったか、まるっきり覚えていないと言うべきだ。とにかく、ある時、アパートから3番目に近いそのリビーという名のパン屋のクロワッサンは、私にとって啓示的なものとなった。フランスで焼かれる無数のクロワッサンを前にしても、私はリビーのクロワッサンがわかるだろう。端からちぎると、バターの香りが鼻をくすぐり、さくりとした皮を口内に感じながら、まるで餅のような生地を噛むと、そのバターの味が広がる。ショソンも素晴らしい。普通はリンゴ・ジャムを薄くしたようなコンポットというのが中に入った靴の踵のような形をしたパイなのだが、リビーのショソンは、まずコンポットが新鮮でリンゴのかけらを残してある。だから、まるでアップル・パイのようなのだ。そして、上質のパイのような生地。更に素晴らしいのがパン・オ・レザン。レーズン入りの細長い生地を蚊取り線香のように巻いてあるパンだが、薄い生地を何層にも重ねて巻いてあるので、これもさくさくとしながらコシを楽しめる。もちろん、パン・オ・ショコラも素晴らしい。ショソン、パン・オ・レザン、パン・オ・ショコラという、フランス菓子パン3種の神器が全て絶品である。何しろ単なるパン生地をぐるぐる巻いた類のパン・オ・レザンも多いのだ。パリ市内の雑誌や本に紹介されているブランド・パン屋で売っていたのも、パン生地ふうだった。
やがて私は結婚して、ルヴァロワからヌイィという隣町に引っ越した。もう歩いて行く事は出来なくなったが、日曜日には車に乗って買いに行った。ある時、店の前の交差点で衝突した車が店に突っ込み入り口がひどく破壊されるという惨事が生じたが、なんとか脇の入り口を使ってお店は営業を続けた。ベニヤ板で覆われたもとの入り口が痛々しかったが、リビーのパンが食べつづけられるだけ幸運であった。修復が完了し、もとの明るい売り場になった頃、私たちはフランスを離れて日本に戻ることになった。そして最後の週末にも、リビーのパンを買いに行った。
ついこの間、出張でパリを訪れた私は、帰国の日に、現地で駐在する後輩に頼んでホテルから事務所に行く道すがら、リビーに寄ってもらった。フランス人にはめずらしく、気の弱そうな顔をしたいつものおばさんがレジで待っていた。全てが以前のままだ。私は、クロワッサン・オ・ブールとパン・オ・レザンを4つずつ買った。朝食として食べるほかに、日本に持って帰ろうとしたのだ。
無事、日本に着いて家に辿り着くと、私は妻の前にしょぼんと潰れた紙袋を差し出した。ぺしゃんこになっていたリビーのパン。気を取り直して、オーブンで焼き直してみると、何だかそれらしい形に復元された。そして口に含む。
あのルヴァロワの街角の光景が蘇って来た。