青い鳥現象

ミシュランの星の意味は、一つは良いところ、二つは近くに行ったら寄るべきところ、三つはそこに行く為に旅行を企画する価値のあるところ。ガイドブックを見て、わざわざ遠くまで食事に出かける。朝早くから行列に並んで、名の通った店の食材を買う。

しかし、毎日そんなことばかりしているわけにはいかない。会社帰りの定食屋、朝立ち寄るコンビニ、コロッケがおいしい路地裏のスタンド、食べることの9割はそんな日常の中に埋もれている。毎日、ミシュランの3つ星レストランで晩飯を食う時間と金があったとしても、そんな毎日がお祭りのような人生は送れまい。もちろん、それは人それぞれ。世の中には、毎日、日常として三つ星レストランで食事をする人もいくらでもいるらしい。私が角の定食屋で焼き魚定食と牛肉スタミナ焼き定食とピリ辛豚肉いため定食と牡蠣フライ定食をサイクリックに繰り返して食べたりするのと全じように、それはそれでその人に日常だ。日常というのも絶対ではない。あたりまえのことだけれど。

でも私の日常は、そんなところだった。

ルヴァロワという、パリ市のひとつ外側の町に住み始めたころ、私はまず近所に何があるか知る為に地図を片手に歩き回った。市場、洗濯屋、床屋、本屋とひととおり確認した。その町には道に囲まれた区画の殆ど全てにパン屋と中華料理屋があった。別に中華街ではないし、道を歩いてもそんなにアジア系の人を見ることはなかったが、何故か中華の数は多かったのだ。フランスの中華は概ね、ベトナムやタイの要素が混ざっているので味付けにちょっとクセがある。日本人がおいしいと思う中華とはちょっと違うし、かといって純ベトナム料理や純タイ料理とも違ってベースは中華なのである。ひととおりの中華屋を食べ歩き、メトロの駅を超えて少し歩いたところにある小さな中華を見つけよくテイクアウトして自分の部屋で食べていた。

ところがある日、ふと自分のアパルトマンと同じ区画にありふれた感じの中華があることに気づいた。ちょうど反対側の縁にあったので、気づかなかったのだ。昼時だったので軽めの点心定食を頼んだ。何とそれは、ベトナムやタイの要素が入らない日本にあるような中華料理だった。特に塩味焼き飯のリ・カントネ(広東飯)はかすかな塩味、口の中に広がる旨み、インディカ種でありながらエッジの立ちと粘度の高度なバランスを持つ米、米粒表面を光らせる程ふんだんに使われながら胃もたれしない軽い油といった点でフランスで食べる焼き飯の中でも3つ星クラスであると断言できた。それ以来、毎週のようにそこに通った。カラフ入りのワインか、コート・ド・プロヴァンスのロゼをドゥミ(1/2)で頼み、点心定食を食べつづけた。1年ほどして、実は普通の定食も絶品であることに気づき、それからは交互に頼むことになった。前菜は芙蓉オムレツかエビ入りサラダ(フランスの中華でサラダという場合、殆どはモヤシのサラダでベージュ色の甘酢ドレッシングがかかっている)。時々ネム(ベトナム風の小さな揚げ春巻、ミントとレタスにくるんで食べる)をとる。メインは点心かエビとタケノコの炒め。そしてリ・カントネ。ワイン込みでだいたい100フランぐらい。日本からの出張者も連れていった。 結婚してからは二人で行った。なじみになって、いろいろ話してみると、日本人もけっこう来ているようだ。10分ほど歩いたところに今はつぶれてしまったが日本のツアーやANAのスチュワーデスが使っていた大きなホテルがあって、旅行客が舞い込んでくることもあったようだ。

それにしても、こんなおいしい店が自分のアパートのすぐ裏側にあったなんて。やはり幸せは身近なところにあるものなのだ。それ以来、私は、自分の家の近くにおいしいお店を見つけることを「青い鳥現象」と呼ぶことにした。

1999.4.17.