JOSEPH-GUY ROPARTZ の生涯
生い立ち
ロパルツの父Sigismondはレンヌに居を構える弁護士だったが、学級肌で考古学に興味を持っていた。 父親はジョゼフ・ギも同じ法律家の道を歩むことを望みはしたが、だからといって子供の頃から音楽へと向かったジョゼフ・ギの熱い想いを妨げることはしなかった。 1885年にレンヌ大学で試験に通り、同年の秋にパリへと旅立った彼は、法律事務所の見習いになる一方でパリ音楽院に入学、テオドール・デュボワの和声学とマスネの作曲のクラスに出席した。 このとき、彼はアルベリック・マニャールと深い友情を育むことになる。しかし、この二人のクラスメイトはどちらもその師とはそりが合わず、マニャールは音楽院を辞めて、ヴァンサン・ダンディに師事し、ロパルツは音楽院のオルガンのクラスで終生の師と仰ぐことになるセザール・フランクと巡り会う。 ロパルツはその頃、マスネの下で作曲の腕を磨き、若き作曲家への登竜門であるローマ賞に手をかけようともしていた。 だが、彼はためらうこと無くフランクのオルガンのクラスに留まる道を選んだのだ。 ロパルツの音楽書法がオリジナリティを発揮しながらも、そこにはフランキストとしての刻印が不思議なほどに見て取ることができる。
(CD "Ropartz : Ouverture, Variations et Final, etc" ARION68184 ALAIN JOUFFRAY による解説に加筆)
教育家として
1894年にロパルツはナンシー音楽院の学長となった。 30歳の学長というのは例を見ないほど若い。そして評判も良かったようである。ロパルツ就任の年にナンシーの市長がムルト・エ・モーゼルの県知事に出した書簡で、「ロパルツ氏について私が受けたのはどれも好ましい情報であり、彼を任じれば、しっかりとして権威のあるそして疑いもなく有能な学長となるだろう。しかもロパルツ氏は指揮の評価も高く、音楽院のコンサートも特別なものとなるだろう。」と綴っている。 作家のモーリス・バレはロパルツのナンシーでの仕事について、すぐに好意的な意見を表明し「音楽によって粗野なロレーヌの地を文化的にする人」と述べた。 1901年には作曲家のヴァンサン・ダンディがロパルツをリヨンでの仕事を紹介して招聘したが、彼はナンシーにとどまる道を選び、音楽院での授業を広げる一方、コンサートのプログラムにも工夫を凝らし一般聴衆の啓蒙にあたった。
彼はバロックから同時代の音楽まで幅広くプログラムに組んだ。 彼の選んだソリストにも惹かれて増えていった聴衆は、1894年からの20年間に1063曲に上る作品をナンシーのオーケストラの演奏で聴くことになった。 このようにして、ロパルツは音楽院に一般の人々を音楽の世界に誘う役割も担うようにしたのだった。 彼がナンシーの人々に聴かせたのはバッハのカンタータやベートーヴェンの交響曲からロシアの作曲家の交響詩に至り、聴衆にとって初めての曲をプログラムに入れるように特に注意を払った。 地方紙のEst Republicainは1898年3月28日の記事で「ロパルツ氏は私たちを更に高く美の頂上まで連れて行くのだ」と書いている。
特にナンシーの人々の記憶に留まったコンサートの一つに、1896年12月27日に行われたユージン・イザイをヴァイオリン・ソロに迎えたショーソンの詩曲の初演がある。
第一次大戦後、彼はナンシーからストラスブールに移り、やはり音楽院の学長を1929年まで務める。
(CD "Ropartz : Trio, Quatrieme Quatour a cordes, etc" TIMPANI 1C1047 YVES FERRATON による解説に加筆)
作曲家として
ロパルツの教育家、そして啓蒙的な指揮者としての活発な活動は、一方で作曲家としての活動を弱めることは無かった。 ロパルツが、生涯の中の70年の間に作曲した200曲近い作品は、あらゆるジャンルに及んだ。 最初の作品は、1882年に書かれ、交響曲としては5曲の番号付きのものの他に、室内管弦楽のための小交響曲がある。 また、多くの交響詩、特に有名なものは、故郷のブルターニュの光景を思わせる「荒地」などの管弦楽曲、ピアノやオルガンの独奏曲。 弦楽四重奏曲や各種のソナタなどの室内楽曲、1曲のオペラ、歌曲や宗教合唱曲などである。
同時代の音楽家ではショーソン、シャブリエ、マニャールやルーセルと同様、ロパルツが音楽の道に入ったのは遅かったが、他の作曲家に与えたアドバイスを彼自らも率先した。 すなわち、「しっかりした技法を身につけることから始めよう。感性の自由な表現を妨げるためではなく、音楽的な美しいアイデアを創造するために。」
ロパルツの作曲における様式の変遷は、3つの時代に分けることが出来る。 第一は、ブルターニュのフォルクロアに基づくスタイルで、1887年から1905年まで。 その後1917年まで続く第二期に、彼はフランク的な循環書法から放たれて彼固有のスタイルを作り上げていく。 第三期は、形式に重点が置かれるようになった。
(CD "Ropartz : Trio, Quatrieme Quatour a cordes, etc" TIMPANI 1C1047 YVES FERRATON による解説に加筆)