Merry Christmas in Summer (1)
年の瀬が近づく頃には、とてもゆっくりクリスマスの音楽を聴いてこんな風なページを纏める時間も無かろうという事で、とある猛暑の夏の日々にせっせとクリスマス音楽を聴くと言う異邦人のみに許されるようなことをしてみた。東洋人がクリスマスの音楽を真夏に聴くとは何たる逆転!? しかし、今やデファクト・スタンダードとしてクリスマスはもう商売繁盛の契機のひとつ、決してクリスチャンのものだけではなくなってしまった。いや、クリスマス自体が、ヨーロッパ人のシンクレティズムの結晶のようなものだと考えれば、起源的にもキリスト教文化だけの独占イベントとも言えなくなるかもしれない。
そもそもまず古代ローマのサトゥルナリア(サトゥルヌス祭)で、12月下旬に人々はプレゼントを交換しあった。不滅のシンボルとしての胡桃を贈る習慣もあった。これは、聖母マリアが胡桃の木で雨をしのいだという伝説とも共振していく。北方ではゲルマン人の収穫祭ユールと共振。もっとも、4世紀になってクリスマスが12月25日になったのも、そのようなローマやゲルマンの人々の間にあったお祭りをキリスト教側が戦略的に取り入れたものと言うこともできそうだ。つまり、「やらせ」なわけである。そして千年の時を経ながら、北方でも南方でも欧州各地でいつの間にかキリスト教のお祭りとして定着していった。
クリスマス・ツリーになると、時代ははるかに下って16世紀から17世紀にかけてのドイツで生まれた習慣らしい。もちろん、ここにも古代ゲルマン人のユグドラシル(宇宙の樹)から発した神話的想像力のこだまが聞こえる。今でもヨーロッパの国々でクリスマスに対して特別な心構えで接するのはドイツ圏だ。ドイツ人のクリスマス・グッズに対するフェティッシュな思い入れは特別である。社会保障コスト逃れのための企業の従業員に対するフリンジ・ベネフィットに対して厳しいドイツの税務署も、会社のクリスマス・パーティを会社の経費で開催することには社会通念上、まるっきりお目こぼしをする。
さて、クリスマス・ツリーは19世紀に入ると近代市民社会の勃興とともに各国に広がりをみせた。ドイツの作曲家グルーバーが「浄しこの夜」を作曲したのもこの頃のこと。ハノーヴァー家を通じてビクトリア朝のイギリスに伝わり華が咲いた。イギリスと言っても、それ以前、プレスビテリアン(清教徒の長老派)が権力を握っていた17世紀のスコットランドではクリスマス禁止令なんかがあったのである。そのころと言えばクリスマスにはどんちゃん騒ぎをやらかすものだったらしい。一方で、繁栄の下に、屈折と偽善も醸成されたビクトリア朝では、クリスマスはすっかり模範的宗教行事になった。
クリスマスと言えばサンタ・クロース。しかし、彼も全く通りがかりの別人である。12月6日の前日に子供達にプレゼントをしていた(という伝説を持つ)人だったのに、オランダからアメリカに伝わって、どういうわけかクリスマスの登場人物になってしまった。そしてトナカイに乗ったり、煙突から入ったりさせられてしまうのである。もともと、今のトルコに生まれて司教になった人なのに、なぜか別荘がラップランドにあるらしく、世界中の子供達の手紙がフィンランド宛に送られたりする。かように、数多くの人々の夢と誤解にこねくり回されたクリスマス、ここ極東の無宗教国でも、恋人がサンタクロースになるかと思えば、ひとりきりのクリスマス・イヴには君が来なかったり、エボシ岩が悲しみで溶けそうになったりするのである。
というわけで、真夏に聴くクリスマス名曲集のスタート。(クリスマスの蘊蓄は平凡社の百科事典から頂きました。)